2月22日(水)

やはり仕事が忙しいのか忙しくないのかよくわからない。やることがあるのかないかわからないが上司は忙しいそうで、でもおれはやることなさそうだから金曜日休んでもいいですかと申し出てみる。まあいいんじゃないという微妙な反応が返ってきたが図太く休むことにする。4連休の生成に成功。

図書館で借りたストーナーを読了。農家に生まれた主人公・ストーナーが親の言いつけで大学に行かされたと思えば文学の道に目覚め大学に残ることになり、結婚したり人間関係でいざこざがあったりしながら静かに生涯を終えていく、といった内容の小説。この小説が凄いのは、とにかく日常で誰にでも起こり得る悲しいことが頻発するところである。結婚生活の失敗とか、身内の不幸とか、職場の諍いとか、そういった劇的ではないが確かに悲しいイベントが常に発生してストーナーを悩ませる。しかしストーナーは常に受動的かつ自己中心的であり、さまざまなシーンにおいて、もし積極的に動けていれば事態は好転していたんじゃないかという感想を抱いた。例えばストーナーは最初、娘・グレースと良好な関係を築くが、妻・イーディスのある行動を境にグレースから引き離される。グレースもあまり良い思いはしていなさそうだと気付いておきながら、何もしない。結果グレースの迎える末路は(少なくとも客観的には)幸せとは言い難い。

受動的に自己中心的に生きて、ちょっとした悲しいことが起き続けて、そして終わる。それがリアルな人生であるというのは理解も納得もできる。しかしこれが巷で「美しい物語」と評されているのは納得がいかない。おれがまだ(自分が思っているよりも)若く、人生に諦念を感じていないということかもしれない。話は変わるが作中でストーナーは不倫をする(しかも不倫している期間は夫婦関係が最も上手くいっていたなんてありがちな文言が添えられて)。おれは不倫する人間が感傷なんかに浸るなと思っている節がある。不倫をしておきながらやたら感傷に浸るストーナーのことが気に食わないだけかもしれないが、妻にバレてもなお不倫をし続ける描写がある小説を本当に「美しい物語」なんて評していいのか?おれが1900年代アメリカの時代背景に明るくないだけでこれくらい当たり前なのか?おれが未だ童貞なのが悪いのか?……などと文句を言いたくはなるが、面白い小説ではある。美しい物語と言っているのは周囲であって作者ではない。こんなことを言ってもしょうがない。

DTM筋が落ちたことを感じているため久々に耳コピにトライ。難しい。難しすぎる。コードはネットで調べたとしても構成音が完コピできている自信はないし(といってもトップノートくらいは正解していると信じたいが)、音数の多い歌メロをMIDIに起こすのも案外難しい。更に使われてる楽器を特定して適切に打ち込む必要まであることを考えると気が遠くなる作業である。定期的に耳コピを頑張ろうと思うタイミングが来るのになぜ挫折してきたかを思い出す。頭の中で鳴っている音をDAWで再現する能力を鍛えるには耳コピを頑張るのがいいのだろうけど、苦しい。苦しいけれど頑張るか、苦しいから他の手段で頑張るかはまた明日考えたい。